風立ちぬ

夢から始まり、夢で終わる。現実の間にも夢が挿入される。
まさに宮崎駿の「妄想」の映画(^^)
 
 
風立ちぬ、いざ生きめやも。」
"Le vent se lève, il faut tenter de vivre." 
(風が起きた、生きてみなければならない。) 
 
              ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』(『魅惑 Charme』に所収) 
 
 
風立ちぬ』に吹いていた「風」は、
これまでの宮崎作品の中で吹いていた「風」とは、少しばかり「質」が異なるかもしれない。
風立ちぬ』に吹いていた「風」は、二郎と菜穂子を結びつけたが、
関東大震災の折に吹き、日本が太平洋戦争に突入した際にも吹き抜けた。
 
夢の中で飛ぶ様々な「可能性の」飛行機。
現実で吹き荒ぶ様々な「風」。
その間で、二郎は「美しい」飛行機の設計を夢みる、否、志す。
そして二郎は、夢の中ではカプローニと繋がり、現実では菜穂子と結ばれる。
 
「君は生きねば」に泣けた…
そこには、菜穂子の想いのみならず、
零戦を設計した、飛行機をつくってきた二郎の業、それに纏わる人々の願いのよーなものも含まれるだろう。
単に「生きねば」であれば想う主体は自己であるが、
君は生きねば」であれば願う主体は周りの人々でもあるのかもしれない。
 
カプローニと二郎との、「夢の中」での対話…
ひょっとしたら「夢」とは、「引き継がれる」もの、若しくは「持続の中にある」もの、でもあるのではないだろーか。
だから、「君は生きねば」の中には、「引き継がれる」想いも含まれるのかもしれない
 
 
風立ちぬの評価が二分されているみたいな意見がネット上で散見されるのだが
それは、この国の国民が「国民の生活が第一」と言われても「分からなかった」事と同様の感性なのかもしれない。
 
風立ちぬ』において、宮崎駿に「生きねば」と言われても「分からない」…
 
小沢一郎に「国民の生活が第一」と言われても「分からない」…
 
それは、この国の国民の「危機感」の欠如であるだろう。
新自由主義によっても放射能汚染によっても死なないと思ってる…
 
 
だから…
「君は生きねば」……
 

そーいえば、
風の谷のナウシカ』原作でのナウシカ最後のセリフと、
風立ちぬ』のキャッチコピーが、
同じ

「生きねば」

なのも感慨深い。
そこに込められた「意味」は宮崎駿にとって以前から同じものであるのだろうが、
その「本質」は変化しているのかもしれない。
時代が変化しているのであるから…